大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

津地方裁判所 平成9年(ワ)97号 判決

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

伊藤誠基

被告

乙山五郎

外二名

右三名訴訟代理人弁護士

加藤謙一

主文

一  被告らは、原告に対し、連帯して金三三万円及びこれに対する平成九年四月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告らの負担とし、その余を原告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告の請求

被告らは、原告に対し、連帯して金三三〇万円及びこれに対する平成九年四月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、三重県一志郡美杉村竹原の上平地区の住民である原告が、同じ地区住民である被告らから、共同絶交宣言(村八分)、いじめ、仲間はずし、嫌がらせを受けたとして、精神的苦痛の慰謝を求めて提起した損害賠償請求事件である。

一  請求原因

1  三重県一志郡美杉村竹原の上平地区は、平成九年四月当時、一二世帯からなる地域で、各所帯の主だった家族構成員は次のとおりであった。

① 被告乙山五郎(組長)・M夫婦

② 被告A(副組長)・B夫婦

③ C(以下「C」という。)・D夫婦

④ 被告E・F姉妹

⑤ G(原告の叔父、以下「G」という。)・H夫婦

⑥ I・J親子

⑦ K

⑧ L

⑨ N

⑩ P(組長の叔父)

⑪ Q夫婦

⑫ 原告

2  原告が地区住民から仲間外れにされたきっかけは、Q夫婦が上平地区に転居してきたことに始まる。Q夫婦は、天理教の教会を開く予定で上平地区に物件を購入したが、同区は簡易水道を利用していたので給水に余裕がなく、Qは井戸水を掘る必要があることを言われていた。ところが、Qが自宅に掘った井戸水からは大腸菌が検出されたため、Qから簡易水道加入の申し入れがあったため、地区では、Qに給水を認めるか否かの問題が生じるに至った。そこで、平成七年一月頃、上平公民館で無記名投票が行われ、原告は賛成票を投じたものの、結果は、八対三でQに給水を認めないことになった。その後、原告は、賛成票を投じた他の二人がNとKではないかと考え、道で会ったついでに聞いてみたところ、二人とも賛成票を投じたことをすぐ教えてくれた。

Q夫婦は、平成七年四月頃上平地区に転入し、原告は、回覧板を回すためにQ宅を訪問することが多かったことから、Q夫婦と親しくなった。そして、原告はQが水に不自由していることを知り、ポリバケツで水を分けてやるようになったが、組長である被告乙山の知るところとなり、同被告から「地区の水を勝手にやるな」と叱られ、水を分けてやることができなくなった。以後、原告と地区住民との間がギクシャクするようになり、原告は被告乙山や同調者に何かにつけて辛く当たられるようになった。

3  平成八年二月頃、原告がNとKからQへの給水の件で投票内容を聞いたことが、被告乙山の耳に入って問題となり、公民館で会合がもたれた。会合の席上、原告は被告乙山やその同調者から怒鳴られ、また、Nは他の地区住民には反対票を投じたと言っていたので、出席者全員に謝罪させられた。後にNについては、同年一〇月頃、伊勢市在住の息子Rが呼び出され謝罪させられた。また、Kも、東京都在住の娘と美里村在住の娘が公民館に呼び出され、地区住民の前で謝罪させられた。

4  原告のQに対する好意的態度は、被告乙山並びにその同調者である被告A、被告E、G及びC(以下四名を合わせて「幹部ら」という。)の反感を買っていたが、その後、被告乙山及び幹部らのいじめ・嫌がらせはますますエスカレートしていった。

(一) 原告は、平成八年六月頃、有線テレビの申込募集期間を過ぎてから申込むと料金が高くなるという話を聞いたことから、早速美杉村役場の支所に置いてある申込用紙で申込みを済ませた。その後、被告乙山が各戸を回って申込用紙を回収に来たため、原告が先に済ませたと言うと、同被告はむくれて帰ってしまった。被告乙山は、地元の公民館で開かれた会合の席でこの問題を取り上げ、住民全員の前で原告に対し、「組長がまとめて持っていくことになっていたのに、勝手なことをした」ときつく叱りつけた。組長には逆らえない原告は、ただ謝罪するほかなかった。

(二) 平成八年七月四日Sが亡くなった。上平地区では組長が葬儀委員長を務め、組員は三日間仕事を休んで葬儀の手伝いをする習わしであった。四日の夜、原告は組長から二万円を渡されて葬儀のためのドライアイスを買いに行き、釣銭を組長に渡すべきところをうっかり喪主に渡してしまった。原告は、またもや被告乙山から「組長に全責任があるのに、なぜ俺をさしおいたのか」と怒鳴りつけられた。被告乙山は、通夜の読経中にも大声で「組長がいるのに」と怒り続け、原告は大勢の出席者の前で侮辱され、黙って聞いているほかなかった。

(三) 上平地区では納税組合をつくって、固定資産税、国民健康保健、住民税、自動車税等の公租公課を一括納税することになっており、納税組合長である被告Eが、住民名義か代表者名義のJA中央農協竹原支所の通帳、印鑑を保管し、住民はその口座に積立てをしていた。

原告は、平成八年一〇月頃、竹原支所の窓口で預金を下ろしたいと伝え、更に「残金がたくさんあるから掛金もしばらく休もうかな」と言ったことがあったが、後日、農協の職員がそのことを被告Eに話し、被告乙山の知るところとなった。数日後、原告は被告E宅を訪れ、自宅裏の畑で作業をしていた同被告に、「納税の金二〇万円を下ろしてくれ」と頼んだところ、同被告は直ぐ家に入ってしまった。しかし、しばらくして被告Eから組長のところへ行くよう言われたので、その足で被告乙山宅に赴き「納税の預金を下ろしたい」と言うと、被告乙山は農協職員に話していたことを聞いており、「その金はちょっと下りない」とかなり怒った様子で答えた。原告は、以前下ろした人もいると聞いていたので「それなら俺の金がないんやろか」と尋ねると、被告乙山は「そんなら納税組合長か地区の者が使ったというのか」と原告を怒鳴りつけた。

5  以上のトラブルが高じて、被告乙山及び幹部らは原告に対し、平成八年一〇月頃から凄まじい糾弾を加えるようになった。

(一) 原告の納税預金引き下ろしの件で、同年一〇月二一日、公民館で全員出席の会合がもたれた。午後七時から始まった会議は延々夜一二時まで続き、原告は納税の件のみならず、Qと懇意にしていることまで取り上げられ、被告乙山から「相談ごとして村を転覆させる気か」と責められた。原告は「いろんな世間話や農業のことなどを話していただけで、村の悪口など言っていない」と釈明しても、被告乙山及び幹部らに理解してもられなかった。

(二) そして、糾弾はその後も頻繁に続いた。

(1) 一〇月二九日午後七時から一二時(公民館)

地区の世帯主が集められ、納税の件、Qの件など同じことが繰り返し問題にされた。

(2) 一〇月三一日午後七時から一二時(公民館)

この日も同じことの繰り返しで、被告乙山は黙っている地区の者に「お前らどう思う」「なんで黙っとるんや」「何かいわんかい」と強い口調で促し、原告は結局被告らを含む参加者全員から「全てQが糸を引いているから(原告が)組長に反発するのだ」と糾弾されることになった。

(3) 一一月四日午後七時から一二時(公民館)

住民全員が集められ、同じ議論がなされたが、原告は全員の前で「(Qと親しくしていることについて)皆に疑われるようなことをしたのなら謝る」と何度も繰り返したが、被告乙山や幹部らから「そんなんは謝りになっとらん」「何をしゃべっとったのかしゃべらなあかん」と許してもらえず、被告E、Dらからは「Qさんにお金もらっているんやろ、だから何もいえやんにちがいない」とまで言われた。次いで納税預金の件に問題が移ってから、被告乙山及び幹部らから会合の場で妹弟を連れてきて謝れと言われた。

(4) 一一月六日午後七時から一二時(公民館)

この日も住民全員が集められ、主にQの件で被告乙山及び幹部らから「一体何をしゃべっていたんや」「何か相談しとったんやろ」「何もないではすまされやん」と糾弾され、原告は「何も言っていない」「悪かったことはもうごめんしてほしい」と謝罪に終始していた。午後一〇時頃になると被告乙山が怒り出し、「俺は帰る」「こんなこといつまでもやっとってもらちがあかん」「お前ら(C、被告A、G)に任せた」と言い残して退席してしまった。Pは「えらいことや、組長を怒らせた」と騒いだが、組長以外の住民は全員残り、幹部らがなおも原告を糾弾し続けた。

6(一)  原告はその後、Qと二人で被告乙山宅に呼ばれ謝罪した。一方、原告の娘で名古屋市熱田区に住んでいる甲が、原告宅に架電してもつながらないので心配して、一一月九日原告宅を訪問して事情を聞いた。原告は、Qへの給水問題、有線テレビの申込みの件、納税預金の件等で被告乙山及び幹部らと揉めているという話をしたが、娘や原告の妹弟まで呼出しを受けていることは話さなかった。

(二)  甲は一泊して一一月一〇日帰宅したが、これを知ったGは翌一一日午前九時頃原告宅を訪れ、「娘が来とって何で組長のところに挨拶もせんと帰ったのか」「組長が何で黙って帰ったんやと怒っとる」と原告を責め立てた。原告は、大変な事態になったとGと二人で一一月一五日、被告乙山宅を訪れ謝罪したが、同被告は湯飲みで机を叩きながら「そんな話は通らん」「そんな付き合いしとったら行くところへも行けない」「俺が死んでもMが死んでも来てくれるな」と剣もほろろうで原告を追い返した。

(三)  一一月一七日午後七時公民館に住民全員が集められた。Qも呼ばれていた。席上、被告Aが口火を切って、「大変重大なことになりました」「Qさんところとはお付き合いしません」と通告した。その後、被告らや他の住民は順番に同じ発言を繰り返し、原告の番になったとき、いじめを受けたくなかったので、他の住民と同様Qと付き合わない旨発言した。被告AはQを退席させたが、次に原告の問題に入り、被告乙山は原告に向かって「こんなことでは付き合いしていけやん」と宣言し、次いで被告Aも「太郎さんとは付き合っていけやん」と同調した。その余の出席住民全員も同じように絶交宣言を繰り返し、原告は上平地区住民から村八分にされてしまった。

7(一)  Gは、共同絶交宣言の後、原告に対し、娘、妹弟を呼んで地区住民の前で謝罪するよう強要してきた。原告には、甲A(岐阜市)、甲B(東京)、甲C(奈良)、甲D(埼玉)、甲E(和歌山)、甲F(名古屋)の妹弟がいたが、Gはしきりに妹弟の電話番号を尋ね、自分からは電話できないと答えた原告は仕方なく、電話番号だけは教えざるを得なかった。

(二)  Gは、一一月一九日頃、原告の妹弟に電話を架け回り、「兄(原告)が大変なことをした。お前ら皆で来て村の者や組長に謝れ」と原告の親戚までも動員して、謝罪することを強要した。甲Aは「足が悪いので行けない。地区で起きた問題は地区で解決し欲しい」と言うと、Gは「とにかく来てくれ。足が悪いのなら這ってでも来い」と有無を言わさなかった。甲Dは「私には村のことは分からない。私が行っても解決できるとは思わない」と答えたが、Gは立腹して絶対来ないといけないと引き下がらなかった。

(三)  しかし、原告の妹弟のうち甲B、甲C、甲Fらは一一月二〇日、心配して原告宅を訪れ、翌日、妹二人が地区の家々を回って謝罪した。また、一一月二二日午後七時から公民館で村の三役であるC、被告A、Gらと甲夫婦が会合をしたが、甲夫婦は最初謝罪できないと断ったものの、これ以上原告へのいじめが続くのは耐えられないと考え、最後は謝罪に応ずることにした。そして、甲は二三日全戸を回って謝罪して歩いた。

(四)  それでも、被告乙山をはじめ幹部らは妹弟全員ではないとなおも不当な妹弟による謝罪要求を続け、Gは原告に対し「このまま村におるんやったら妹弟全員が来ないかん」「Aさんも組長もお前が倒れたらほっておけんやろ、そこまで心配しとるんや」と責め立てて、原告を居たたまれない状況に追い込んでいった。

8(一)  平成八年一二月四日、L'が死亡した。しかし、L'の死は原告に知らされず、原告は地区外の人から聞いて知った。もちろんQにも知らされていなかった。原告は一二月四日午前一一時頃地区の者が帰った後、L宅を訪れ、仏壇に香典を置いて焼香したが、後でLから原告とQには知らせるなと被告乙山から言われていたことを聞き、香典も受け取れないと言われてしまった。こうして原告はL'の葬式、法事に列席することができなくなり、本当の村八分状態となってしまった。

(二)  一二月七日は公民館で恒例の「報恩講」が開かれ、いつもだと忘年会が開かれることになっていたはずだが、原告には会費の徴収も、誘いもなく、後日Gが原告宅にガラス戸をこじ開けて入ってきて報恩講のお下がりを置いていった。

(三)  原告は、この頃思いあまって弁護士に村八分状態になっていることを相談するようになっていた。一二月一五日また公民館で地区の会合があり、原告は呼出しを受けたが、またもQと親しく交際していることを問題とされ、被告乙山から「麻原も裁判になってしゃべり出している。お前も(Qと話していること)言うたらどうか」と問いつめられた。原告は、「わしは自分でもどうしたらええかわからんで、弁護士に相談に行ってきた」というと大騒ぎになり、被告Eから「どこへでも出ていったろやないか」と啖呵を切られる始末であった。

9  平成九年一月九日公民館であった初会合で原告は、C、被告A、Gらからまたも「妹弟を呼んで来て謝ったら話が進むんやないか」と言われた。原告も何とか村八分状態から抜けたいと考えていたので、「妹弟が来たら解決してもらえるんか」と尋ねたら、「それは分からんが、そちらが誠意を見せなあかんわな」と言われ、妹弟に電話してみることを約束した。原告は妹弟に当たってみたが良い返事がもらえず、娘の甲夫婦に相談したところ断るように言われた。

C、被告A、Gらは、原告に対し「本当に妹弟に頼んどるのか」と言い続けてきたが、二月一八日も午後六時三〇分頃原告宅を訪れ、「おいらが代わりに行って頼んできたろ」とまで言うようになった。原告が「他人が行ってもあかん」と言うと、三名から「おちょくっとるか」と言われ、どうすることもできない状態になった。午後一〇時三〇分頃、甲から父を心配して電話があり、同女が三名らに「家に押しかけてまで迫るのはひどい」と抗議しても平行線であった。

10  原告は、二月に入ってから体調が崩れだし、とうとう二月二二日頃名古屋の甲夫婦宅に身を寄せることになったが、胸が痛くなり二月二七日名古屋市熱田区の協立総合病院に入院した。軽度の心不全、不整脈と診断され、三月一四日まで入院したが、地区住民と揉めるまでこのような病気をしたことはなかった。

11  被告らの原告に対するいじめ、嫌がらせ、村八分、仲間はずし、執拗な謝罪要求は原告の人格権を著しく侵害するものであり、被告らの共同不法行為が成立する。よって、原告は被告らに対し、人格権侵害の共同不法行為によって被った精神的苦痛について、各自連帯して、慰謝料金三〇〇万円と弁護士費用三〇万円を加えた合計金三三〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である平成九年四月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び被告らの主張

1  請求原因1項のうち、C・D夫婦が上平地区に居住していることは否認し(転居済みである)、その余の事実は認める。

2  請求原因2項のうち、Q夫婦が転入したことに伴い水問題から論議が発展したこと、Q夫婦への水の分配に関し平成七年一月に投票を行ったこと、その結果八対三で給水しないこととなったことは認める。原告を仲間外れにしたこと、原告がQに水を分けたことに関して被告乙山が叱ったことは否認する。その余の事実は不知ないし争う。

3  請求原因3項のうち、平成八年二月頃に地区が会合をもったこと、被告乙山らが原告を怒鳴って叱ったこと、Nを謝罪させたことはいずれも否認する。なお、納税預金の払戻しについて話し合うために、平成八年一〇月頃にもたれた会合の席で、原告が無記名投票の際の賛成票が誰かについて暴露したため、会合が混乱したことはある。そこで、この無記名投票者の中の賛成者の意見を表明する場を持つことになり、N、Kがその会合に息子らを呼ぶこととなったのである。

4(一)  請求原因4(一)項のうち、被告乙山が有線テレビの申込みを地区でまとめてやるということで各戸に手続に回ったこと、原告がその頃自分で別に申込手続を済ませていたことは認め、その余は否認する。

(二)  請求原因4(二)項のうち、被告乙山が原告に対し、葬儀の際、ドライアイスを買ってくるよう要請したこと、その釣銭と領収書を原告が喪主に渡したことは認め、その余の事実は否認する。被告乙山が「領収書、おつりをくれないと困る」と言ったことは認めるが、これに対し原告は「誰に返そうと自分の勝手だ」等を言うので、それはルールに反する(不合理屈だ)と被告乙山が言うと、原告は不合理屈を言うのは組長の方だと反発した。いずれにしても、これは通夜の行事が終わってからのやりとりで、読経中に原告を大勢の前で侮辱するようなことは全くしていない。

(三)  請求原因4(三)項のうち、被告Eが組合長となり上平地区において納税組合を組織していること、平成八年一〇月頃に原告が右納税積立金を農協竹原支所で下ろそうとしたり、掛金を休みたいと申し入れたこと、その後、原告が直接被告Eに対して二〇万円下ろしたいと申し入れてきたこと、そのことについて被告Eが被告乙山に相談したことは認める。

原告が被告乙山に納税預金を下ろしたいというので、被告乙山は原告の真意を質すべく「暫く待て」と述べた。ところが、原告は「会計報告が違っているという意味か」と問うので、被告乙山は「違っているはずがない。自分も監査として毎年監査している」と述べた。原告はさらに、「帳簿があっているのに出せないということは金がないということか」と問うので、被告乙山は「そんな言い方は誰かが使い込んでいるという言い方だ」とたしなめたところ、原告はもういいという態度で帰った。そこで、被告乙山は会合を開き、納税預金の取崩しを認めるか否か、不正があるか否か、疑惑解明に向けて協議をはかることとした。

5(一)  請求原因5(一)項の事実のうち、一〇月二一日に原告からの納税組合に対する申入れにつき協議するため、全一二戸が参加して全員集会がもたれたことは認める。

被告乙山はこの会合において、事の経緯を報告し、原告からの発言を求めたところ、原告は「自分の金だから下ろそうと積立てをやめようと勝手じゃないか」と発言した。そこで、被告乙山は、納税組合は毎年決めたことを前提に一年間の定期積金を契約しており、また、「全額納税方式」により村から奨励金が交付されるなどの特典があり、その効果は全体に帰属するものであるから、途中からの単独行動は許されないと説明した。こうした論議の流れのなかで、「Qが転入して以来、何かとトラブルが原告との間で生ずるが、何か関係があるのか」という趣旨の発言が出た。原告はこれに対し「Qとは世間話をしているだけで何の関係もない」と答弁していた。

(二)  請求原因5(二)項の事実のうち、一〇月二九日、一〇月三一日、一一月四日、一一月六日に集会がもたれたことは認める。第一回の集会を終えても原告からの納税組合に対する理解、組合長の金銭管理に対する疑惑発言につき、決着が得られなかったので、右各集会がもたれたものである。しかし、会合を重ねても原告の態度は変わらず、時に謝罪の言葉が出たかと思えば「爪のアカ程も悪いことはしていない」という有様で地区内の融和が計れなかった。

6(一)  請求原因6(一)の事実のうち、原告がQと二人で組長である被告乙山方へ謝罪に来たことは認め、その余の事実は知らない。

(二)  請求原因6(二)の事実のうち、Gが原告を連れて被告乙山方に出向き謝罪の意向を伝えたことは認める。Gは原告の叔父であり、この間の地区におけるトラブルを心配し、原告を連れて謝罪に赴いたものであるが、被告乙山が原告に何の謝罪のつもりかと問うと、原告は何も悪いことはしていないが謝罪せよというので謝罪しているといった態度であったため、被告乙山はそれでは問題の解決にはならないと原告に指摘しておいたまでである。

(三)  請求原因6(三)の事実のうち、一一月一七日に住民集会があったことは認める。その際、被告Aは問題の根であったQが「原告との付合いをやめる」と言っていたことを地区に伝えたが、Qがそのような発言をしたことはないと否定するので、かような信義にもとる発言をするQは信用できず、付合いができない旨発言した。その後の住民の発言については争う。一応話が終わり、報恩講の話となったので、宗派の違うQには帰って頂いてよい旨伝えて打合せをした。その際、被告らが原告に対し、絶交宣言をしたことはないし、今もそのつもりはない。原告は、一一月一七日以降も、地区の集会に参加したり、紛争解決に向けて幹部らと話合いをしたりしているのであり、原告が村八分の状態になかったことは明らかである。

7  請求原因7項の事実のうち、Gが原告の叔父の立場から、地区内の対立を解消せねばならぬとの信念から原告の妹弟らに連絡をとったこと、その中で甲Bらが村を訪れ、謝罪に回ったこと、原告の娘である甲も謝罪に回ったことは認める。こうしたGの要請は、親族としての誠意から出たものであって強要したものではないし、被告乙山の意向を受けてのものでもない。

8(一)  請求原因8(一)項の事実のうち、被告乙山が原告とQにL'の死を知らせるなと指示したことは否認する。L'死亡に伴う葬儀については、喪主Lの意向を受けたCが取り仕切ったことであり、被告乙山が指示を出したのではない。

(二)  請求原因8(二)項の事実のうち、一二月七日に公民館で報恩講が開かれたことは認めるが、原告に誘いがなかったことは否認する。本来この報恩講の世話係には下組員である原告も加わるはずであったが、原告がこれをボイコットしていたため、他の者が代わりに行ったものであり、誘いがない等という言い方は全くあたらない。

(三)  請求原因8(三)項の事実のうち、一二月一五日に地区の集会があったこと、その際原告より弁護士と相談している旨の発言があったことは認めるが、その余は否認ないし争う。

9  請求原因9項の事実のうち、平成九年一月七日に原告を交えての地区の会合が開かれたこと、二月一八日頃被告らが原告方を訪れたこと、発言内容についてはおおむね認める。こうした訪問は、叔父であるGのリードのもとに行われたが、地区内感情調整のために行われたものにすぎない。

10  請求原因10項の事実のうち、原告がいつ、何処の病院に何の為に入院したのかは知らない。本件論争と入院との因果関係は争う。

11  以上のとおり、被告らが原告に対し、共同絶交宣言(村八分)、いじめ、仲間外し、嫌がらせをしたことはない。

そもそも、本件は、一〇世帯程度の小さな旧集落の自治組織内の争いを舞台にしており、地域の自治に任ずべき事柄に過ぎない。しかる時は、「自律的な法規範をもつ社会ないし団体」にあって「当該規範の実現」は「内部規律の問題であって、司法権に服しない」(昭和五二年三月一五日最高裁第三小法廷判決等)という原理に注意を払うべきである。また、原告は、被告らが共同絶交宣言をして人格権を侵害したと主張するが、仮に右事実が認められるとしても、それは自治組織全体がかような決議をして原告を差別したという主張であるから、論理的には地区集会の決議であって、被告ら個人の問題ではないというべきである。さらに、原告は、有線テレビの申込問題・藤岡加一の葬儀問題・納税組合問題で、被告らから「いじめ」や「嫌がらせ」を受けたと主張するが、これらはいずれも原告が地域社会のルールを逸脱し、単独行動を取った故に生じた摩擦であるから、原告に原因のあることであって、被告らに責任が生ずる事柄ではない。全員出席集会も、原告が次々と起こすトラブルを解決するために開かれたものであり、こうした方式は、上平地区が問題解決の方式として多年培ってきた伝統であって、高齢過疎地としての地域の特性であるから、他からこれを評すべき問題ではない。

以上、いずれの観点からしても、被告らに不法行為責任が成立するいわれはない。原告の主張する損害については争う。

三  争点

1  被告らについて、原告に対する人格権侵害に基づく共同不法行為責任が成立するか。

2  原告の損害額

第三  争点に対する当裁判所の判断

一  本件紛争に至る経過

甲一及び二号証、五ないし一二号証、乙一及び二号証、四ないし一二号証、原告甲野太郎本人尋問の結果、被告乙山本人尋問の結果、被告A本人尋問の結果、被告E本人尋問の結果(但し、原告及び被告らの本人尋問の結果中、以下の認定事実に反する部分は除く。)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  三重県美杉村竹原の上平地区は、前記第二の一1記載の一二世帯(平成九年三月当時)が生活する地区であり、原告及び被告らはともに右地区の住民である。同地区では高齢化・過疎化の傾向が顕著であり、他からの転入者もほとんどないため、地区住民間の連携は極めて密接である。地区における共同作業も頻繁に行われ、地区住民は、共同墓地の管理、区有林の管理、貯水槽・濾過漕等の管理など様々な作業を共同で行っている。

2  上平地区では、地区役員として組長、副組長、会計、山林役員、無任所の役員がおかれており、本件紛争当時は、被告乙山が二〇年以上組長を、被告Aが副組長を、Gが会計を、Cが山林委員を、原告が無任所の役員を務めていた。また、上平地区では納税組合をつくって、軽自動車税・村県民税・固定資産税・国民健康保健料等の公租公課を一括納税することになっているところ、被告Eが納税組合長を務めていた。

3  平成四年八月頃、Q夫婦が、天理教の教会を開く予定で上平地区に不動産を購入した。ところが、上平地区では簡易水道を利用しており、給水量に限界があったため、Q夫婦に簡易水道の利用を認めるか否かの問題が発生した。原告は、会合の席上等で、Q夫婦に簡易水道の利用を認めるべきであるとの発言を行っていたが、地区内では反対意見の住民が多く、平成七年一月に行われた無記名投票では、八対三でQ夫婦に給水しない旨が決定された。この投票で、原告は賛成票を投じていたところ、原告は、右無記名投票後も、Q夫妻への給水を認めないことに不満を持ち、その後上平地区に転居してきた同夫妻にその不満を漏らすことがあった。

4  Q夫婦は、平成七年五月頃、上平地区に転居してきた。原告は、Q夫婦と親しく付き合い始めたが、その後、原告と他の地区住民との間でトラブルが発生するようになった。

(一) 平成八年六月頃、原告は、美杉村役場の支所に赴いて、有線テレビの申込みを済ませた。ところが、右申込みについては、平成八年一月の会合で組長が取りまとめる旨の申合わせたされていたため、原告は被告乙山から、「組長がまとめて持っていくことになっていたのに勝手なことをした」ときつく叱られた。また、原告は、会合の場で、他の住民からも「それは太郎さんが悪いわ」と責められた。原告は、「つまらんことしてすいません」と謝罪した。

(二) 平成八年七月四日、地区住民であるSが亡くなり、葬儀が執り行われた。上平地区では組長が委員長となって葬儀を行うことになっており、組長が喪主より現金を預かり葬儀終了後に会計報告を行うことになっていた。原告は、右葬儀において、被告乙山から二万円を渡されてドライアイスを買いに行ったが、釣銭を組長に渡すべきところを喪主に渡してしまった。すると、被告乙山は、原告に対し、「組長に全責任があるのに、なぜ俺をさしおいたのか」と怒鳴りつけた。

(三) 上平地区では、納税組合をつくっており、納税組合長である被告Eが、組合名義のJA中央農協竹原支所の通帳・印鑑を保管し、住民はその口座に納税資金を積立てすることになっていた。原告は、納税資金として積み立てた残金が多くなったため、毎月行っていた積立てを中止しようと考え、平成八年九月頃、被告Eに対してその旨を申し出た。被告Eは、納税預金の積立ては、毎月地区全体で一定額を積み立てるものであるから個人の勝手でやめることはできない旨説明し、三月までは頑張って積立てを続けて欲しいと原告に話した。また、原告は、同じ頃、農協竹原支所に赴いて、積立ての中止と納税預金の払戻しを申し出たが、農協職員に、被告Eによる所定の手続がなければ払戻しはできないと断られた。そこで、原告は、同年一〇月頃、被告Eに対して、納税預金二〇万円を払い戻して欲しいと申し出たところ、同被告から、会計監査をしている被告乙山に申し出るよう言われた。原告は、その足で被告乙山宅に赴き、「納税の預金を下ろしたい」と申し出たが、被告乙山に「ちょっと待て。その金はちょっと下りない」と断られてしまった。原告は、以前に下ろした人もいると聞いていたので、「それなら俺の金がないんやろか」と尋ねたところ、被告乙山は右発言を納税預金管理に対する疑惑発言ととり、「そんなら納税組合長か地区の者が使ったということか」と原告を怒鳴りつけた。

5  以上のトラブルが高じて、原告は、被告乙山や幹部らをはじめとする地区住民から、様々な糾弾を受けることとなった。

(一) 平成八年一〇月二一日、公民館で全員出席会合が行われ、原告が申し出た納税預金の払戻しについて話合いがなされた。右会合では、原告が納税預金の管理について疑惑発言をしたとして、原告に対する追及がなされ、被告乙山及び同Eは、金銭管理を疑われて情けないと言って、組長及び納税組合長を辞退した。また、原告は、納税預金の払戻しを頼む際、畑仕事をしていた被告Eに対し、道端から用件のみを告げていたところ、被告Eをはじめとする他の住民から、「挨拶もなしに来た」「頼みにいく態度が悪い」と責められた。さらに被告乙山は、相次ぐトラブルに、原告とQが結託して組長に反抗しているのではないかと疑い、「Qが転入して以来、何かと原告とトラブルが生ずるが、Qが糸を引いているのではないか」「Qと相談事をしているのではないか」と原告を執拗に追及した。原告は、「何もない」と釈明したが、「何もないではすまされない」と言われ、信じてもらえなかった。

(二) また、この頃開かれた会合で、Q夫婦への給水に関する無記名投票で、誰が賛成票を投じたかが話題にのぼった。原告は、右投票が行われた後、賛成者が誰であるかを他の住民に確認していたところ、右会合において、賛成者のうち一人はKであり、もう一人はIであると思うと暴露してしまった。現実に賛成票を投じたのは、IではなくNであったが、Nが自ら賛成者であることを申し出たため、結局、右三名が賛成者であったことが他の地区住民に明らかになった。賛成者は、他の住民から、「なぜ丸をつけたのか」「あんた水道当番やっとって、水にあれだけ苦労しとってよう丸をつけたな」と責められ、N及びKは、後日、息子や娘を伴って、他の住民に対し、賛成票を投じて悪かったと謝罪するに至った。

(三) その後も地区では、一〇月二九日、一〇月三一日、一一月四日、一一月六日と頻繁に会合が開かれ、納税預金の件や、原告とQとの関係が繰り返し問題とされた。一〇月三一日の会合では、「原告は性格的に以前から問題点が多いが、Qが来るまでは近頃のように組長に反発したり組の取決めに反することはなかった。Qが来てからという事と何か関係があるのか」と他の住民から糾弾された。また、一一月四日の会合で、原告は、「皆に疑われるようなことをしたのなら謝る」と繰り返したが、被告乙山は、原告とQとの関係をあくまで疑い、「そんなんは謝りになっとらん」「何をしゃべっとったのかしゃべらなあかん」と責めたてた。さらには、Dは「Qにお金もらっとるんやろ。だから何もいえやんに違いない」と言い出し、被告Eも「そうかもしれない」とこれに同調した。一一月六日の会合では、被告乙山及び幹部らはさらに、「Qと一体何をしゃべっていたんや」「何か相談しとったんやろ」「何もないではすまされやん」としつこく追及し、「何も言っていない」「世間話や農業の話をしていただけである」と原告が釈明したところ、被告乙山は怒って途中で帰ってしまった。その後、原告は、被告A、C、Gから何度も呼び出され、妹弟・娘を呼んで地区住民に謝るように強く言われた。

(四) 一一月九日、原告の娘で名古屋市に住んでいる甲が原告の様子を見に原告宅を訪れ、一泊して帰宅した。これを知ったGは、原告宅を訪れ、「娘が来ていて何で組長のところに挨拶もせんと帰ったのか」と怒鳴りつけた。またGは、甲のところへも電話を架け、「お前の親父がとんでもないことをしでかしているのに、帰って来ていて何で謝りに来ない。地区に迷惑かけとるんや。もう一回来て謝れ」「関係ないではすまされやんぞ。ええか組長に逆らうことは、地区の者皆に逆らうことなんや。とにかく来い。来て皆に謝れ」と地区に対する謝罪を要求した。

(五) 原告は、一一月一五日、Gと二人で被告乙山宅を訪れて謝罪した。しかし、被告乙山は、原告がQとの相談事の内容を明らかにしないと言って怒り、「そんな話は通らん」「俺がたとえ死んでもMが死んでも、あんたは俺の所に来んどいてくれ」と原告を追い返した。

6  一一月一七日、公民館で住民全員の会合が開かれ、被告Aが司会を務めた。右会合では、まず被告Aが、Q夫婦が原告に対して絶交宣言をしたとの報告を行ったが、Q夫婦から絶交宣言はしていないと否定されたため立場を失い、「Qさんは信用できないから私は付き合えない」と言うに至った。これに対して、他の住民も口々に「同感だ」「自分たちもそう思う」と賛成したため、原告もやむを得ずこれに同調した。その後、報恩講の協議をするため、天理教徒であるQは退席させられたが、右協議に移る前に、今度は原告についての問題が話し合われた。そして、被告乙山が「このように反省しない太郎さんであれば、私らが死んでも立ち会って欲しくない」旨発言すると、続いて、被告Aが「そんな太郎さんでは付き合っていけないと思う」と述べ、他の住民全員も「そんな太郎さんでは仲良く付き合っていけやんやないか」と同調した。こうして原告は、他の住民全員から絶交宣言されてしまった。

7  G、C及び被告Aは、右共同絶交宣言の後、原告に対し、娘や妹弟を呼んで、地区住民の前で謝罪するようさらに要求をしてきた。

(一) 原告には、甲A(岐阜市)、甲B(東京)、甲C(奈良)、甲D(埼玉)、甲E(和歌山)、甲F(名古屋)の妹弟がいるところ、Gは、一一月一九日頃、原告の妹弟に電話を架け回り、「兄(原告)が大変なことをした。お前ら皆で来て村の者や組長に謝れ」と謝罪を要求した。甲Aは、Gの要求に対し、「足が悪いので行けない」と断ったが、Gは「とにかく来てくれ。足が悪いのなら這ってでも来い」として引かなかった。また、甲Dは「私には村のことは分からない。私が行っても解決できるとは思わない」と答えたが、Gは絶対来なければならないと強く要求した。

(二) 原告の妹弟のうち、甲B、甲C、甲Fらは、一一月二〇日に原告宅を訪れ、翌日妹二人が地区の家々を回って謝罪をした。また、一一月二二日には、被告A、C、Gと甲夫婦が会合を行い、甲夫婦は当初は謝罪はできないと断ったものの、これ以上、原告に対するいじめが続くのは耐えられないと考え、謝罪に応ずることにした。そして、一一月二三日、甲は各戸を回って謝罪を行った。

8  しかし、その後も原告に対する糾弾は続いた。

(一) 一二月四日、地区住民であるL'が死亡したが、原告にはL'の死は知らされず、原告は地区外の人から聞いてこれを知った。原告は、地区の者が帰った後にL宅を訪れ、焼香を申し出たところ、Lは「組長さんにも叱られるかもしれんけど内緒で焼香したってくれ」と言って、原告の焼香を受けてくれた。しかし、右葬儀を取り仕切ったC(亡L'の義弟)は、絶交宣言を受けている原告に焼香をさせたことで責任を問われ、反対に、被告乙山や他の幹部らから糾弾される立場に陥った。糾弾に耐えられなくなったC夫婦は、平成九年三月に上平地区から転居した。

(二) 一二月七日、公民館で恒例の報恩講が開かれたが、原告は、絶交宣言を受けていたため、出席することができなかった。

(三) 一二月一五日、公民館で住民全員出席の会合が開かれ、引き続き、原告とQの問題が糾弾された。原告が、弁護士に相談していることを明かすと、会合は大騒ぎとなり、被告Eからは「裁判をするならば受けて立つ。どこへでも出る」と啖呵を切られてしまった。

(四) 平成九年一月七日、公民館で初会合が開かれた。初会合の後、午後一時から、被告A、E、Gと原告との間で話合いが持たれ、原告が改めて謝罪を申し入れると、被告Aらは、本当に反省しているのなら、以前に地区に対する謝罪を断った甲A及び甲Dを謝りに来させるよう要求した。しかし、甲Aは足が悪く、到底地区に来られるような状態ではなく、原告は娘である甲からも、これ以上謝罪する必要はないのではないかと言われてしまった。その後も被告Aら三名は、原告に対して、妹弟の謝罪がどうなっているかと度々追及し、一月一五日公民館、一月一七日G宅、一月二六日公民館、二月一日G宅、二月一七日公民館と繰り返し右問題を討議する会合が開かれた。そして、被告Aら三名は、原告からはかばかしい返答がないと見るや、二月一八日には原告宅を訪れ、「おいらが代わりに言って頼んできたろ」とまで言うに至った。原告は「何としても妹弟が謝らんだら許してもらえんやろか」と聞いてみたが、被告Aは「妹弟皆が最初からすまんと云うとるんやったらあれやけど、そうやないんやで、それはことわりを云わんことには納まりがつかんとあんたも思うのと違うか」と答え、あくまで妹弟による謝罪を求めた。

9  原告は二月に入ってから体調が崩れ、二月二二日頃、名古屋の甲夫婦宅に身を寄せることになった。その後、原告は、上平地区に戻り、同地区で生活しているが、他の地区住民との交流はないままである。

10  本件訴訟は、当初、被告らの外、G及びEも相手方として提起されたが、右両名はいずれも、被告らの原告に対する共同絶交宣言、仲間外し、いじめ、嫌がらせに加担したことを認め、Eは六万六〇〇〇円の、Gは六万円の慰謝料を支払って、原告との間で和解した。

二  被告ら及び原告の各供述に対する検討

1(一)  前記一認定事実に対し、被告らは、平成八年一一月一七日に行われた会合で原告に対して共同絶交宣言をしたことはないと供述する。しかし、住民全員が出席した会合で、原告が皆から付き合っていけないと言われたこと自体は、被告乙山及び同Aも認めるところであり、右発言の態様及び内容からすれば、これは共同絶交宣言というに値するものである。被告Aも、平成八年一一月二二日に行われた甲夫婦との話合いで、甲が「私はね絶交宣言されたということに、すごいあのー」と述べたのに対し、「そんなもん単純にしたことと違うの。三や四日のことで」と答え(甲八号証)、絶交宣言の事実を自認している。

また、被告らは、一一月一七日の会合後も、地区住民は原告との間で様々な接触をもっており、原告を村八分にした事実はないと主張する。この点、確かに原告は、一一月一七日以後も、地区の会合に出席したり、被告らとの話合いに臨んだりしていることが認められるが、これらの会合の多くは、原告に対する糾弾や謝罪要求を目的とするものであるから、右会合での接触をもって、原告と他住民との間で通常の交際が行われていたと認めることはできない。むしろ、原告は一二月四日にL'が死亡したことを知らされず、葬儀参加にも難色を示されているのであるから、地区住民から交際を拒絶されていたと認めるべきである。以上によれば、原告は一一月一七日以降、いわゆる村八分(葬式・火事以外の完全没交渉)ではないにしても、仲間外れの状態にあったと認められる。

(二)  また、被告Aは、原告に対して妹弟・娘による謝罪を要求したことはないと供述する。しかし、被告Aは、平成八年一一月二二日に行われた甲夫婦との話合いにおいて、甲が「僕たちにも、要するに謝らんなあかんということですよね」と尋ねたのに対し、「お父さんと自分らは立場が違うさかいに、お父さんは謝っても自分らは謝らんでええということか」と述べ(甲八号証)、甲夫婦に対し間接的に謝罪を要求していることが認められる。また、被告Aは、本件訴訟提起後も原告の妹弟に対して執拗に電話をかけ、妹弟を巻き込んで本件紛争を解決しようと奔走していることが認められ(甲六号証及び被告A本人尋問の結果)、右各事実によれば、原告の妹弟・娘に対して謝罪要求をしていないとの被告Aの供述は採用することができない。

さらに、被告乙山は、Gや被告Aらが原告の妹弟らに謝罪を要求したことについて自分は一切関知していないと供述する。しかし、被告乙山は甲との話合いにおいて、「お父さんが本当に悪いと思っとるのやったら、岐阜の叔母さんに怒るとか、言って聞かせるとか、俺が悪いで頼む謝ってくれとか、皆にお父さんが詳しい説明して、あんたにでも、悪いけど甲、俺が悪かったんや、皆さんに理解してもらえるようにな、可哀想やけど努力してくれと、お父さんが言うべきなんや。お父さんはそれをしとらへん」と述べ(甲一二号証)、暗に妹弟・娘による謝罪を要求していることが認められる。また、本件各証拠によれば、被告乙山は上平地区において、二〇年以上組長を務め、絶大な影響力を有していることが認められるのであって、Gらの謝罪要求が被告乙山の意向と全く無関係に行われたとは考えがたい。以上によれば、被告乙山の右供述は採用することができない。

(三)  加えて被告らは、L'の葬儀への原告の参加・不参加は、喪主の意向を受けて葬儀を取り仕切ったCが決めたことであると供述する。しかし、Cは、当裁判所に提出した答弁書(甲一〇号証)において、「絶交宣言をしたのにE氏を焼香させたと云うことで、喪主の義兄とともに兄弟として又幹部として責任を問われ、妻L'と三人で組長宅に謝罪に云ったが誠意がないと云われ、組長や幹部に毎日のように責められ原告と同じ立場になった」と述べているのであって、右証拠によれば、被告らの右供述は採用することができない。L及びCが、原告の葬儀参加に難色を示したのは、被告らの意向を受けてのものであると認めるのが相当である。

2  次に、前記一認定事実について、原告は、Q夫婦への給水に関する無記名投票について賛成者を暴露したことはない旨供述するが、賛成者であったKは、原告に暴露されたと陳述しているのであるし(乙五号証)、甲は被告乙山及びGとの話合いにおいて、原告が誤ってIを賛成者と名指ししたことを謝罪しているのであるから(乙一〇号証)、原告の右供述は採用することができない。

三  被告らの不法行為の成否

1 前記一認定の事実関係を前提とすると、被告ら、G及びCは、平成八年一〇月以来原告に対しQとの関係を執拗に糾弾し、平成八年一一月一七日には他の住民と共同して原告に対する絶交宣言を行い、さらに原告の妹弟や娘を呼んで地区住民に対し謝罪するよう要求していたのであるから、被告ら、G及びCの右行為は、社会通念上許容される範囲を超えた「いじめ」ないし「嫌がらせ」と言わざるを得ないというべきである。したがって、被告ら、G及びCには、人格権侵害に基づく共同不法行為が成立し、被告らは、右共同不法行為によって、原告が被った損害を賠償する義務を負う。

2  なお、被告らは、右共同不法行為の成否について、以下のとおり主張するので、検討する。

(一) 被告らは、いわゆる部分社会の法理の適用を主張するようであるが、本件で争点となっているのは、人格権侵害という一般市民法秩序に関する問題であって、地域の自治に任すべき内部的問題ではないから、司法権に服すべき事項と解される。被告らの右主張は採用することができない。

(二) 被告らは、共同絶交宣言は自治組織全体の決定であって、役職者である被告ら個人に不法行為責任は発生しないと主張する。しかし、機関の職務行為について法人の不法行為責任が発生する場合であっても、機関個人は、不法行為の一般原則に照らして責任を負うことを排除されないと解されるから、自治組織についての不法行為責任の存否は、被告らの不法行為責任に何ら影響を与えない。被告らの右主張は採用することができない。

(三) 被告らは、本件紛争は原告が地域社会のルールを逸脱し、単独行動をとった故に生じた摩擦であって、原告に原因があることであると主張する。この点、前記一によれば、原告は、無記名投票後にもQ夫妻への給水に固執したり、右投票の秘密を侵したり、地区住民が合意で行っている納税預金の積立てを年度途中で中止しようとするなどしたのであるから、本件紛争の発端に、原告の不適切な言動があったことは否定できない。しかし、原告のこうした言動を勘案しても、その後に被告らが原告に対して行った糾弾・謝罪要求は、余りに執拗かつ苛烈であって、社会通念上許容される範囲を超えているというべきである(なお被告藤岡らは、原告が納税組合の管理を疑う発言をしたと供述するが、前記一認定の原告の発言をそのような趣旨に理解することは困難である。)。右主張は、被告らの不法行為責任の成立を否定する根拠とはなりえない。

(四) 被告らは、全員集会方式は上平地区が問題解決の方式として長年培ってきた伝統であり、高齢過疎地としての地域の特性であるから、他からこれを評すべき問題ではないと主張する。確かに、住民全員が会合に参加して話合いを行うこと自体は、高齢過疎地における問題解決方法の一つとして十分尊重すべきものであるが、このような話合いにおいてであっても、限度を超えた「いじめ」や「嫌がらせ」が行われてはならないことは当然の理であり、右主張をもって、被告らの不法行為責任を否定することはできない。

四  原告の損害額

1  慰謝料について

前記一認定事実を前提とすれば、原告は、被告らからの執拗な糾弾・共同絶交宣言・妹弟や娘を巻き込んでの謝罪要求等により、相当程度精神的苦痛を被ったことが推認される。他方、本件紛争に至るについては、原告側にも、無記名投票にQ夫妻への給水に固執したり、右投票の秘密を侵害したり、納税預金の一方的中止を申し出るなど、社会生活を営む上で不適切な言動があったものである。また、原告は、被告らのいじめの結果、体調を崩して入院せざるを得なくなったと主張するが、原告は既に高齢であり(大正一〇年一一月一三日生)、本件各証拠を精査しても、被告らのいじめと原告の病気との因果関係を客観的に証明するに足りる証拠はない。

以上の認定事実を考慮すると、本件において被告らが賠償すべき原告の損害額は三〇万円と評価するのが相当である。

2  弁護士費用について

原告は、本件訴訟を提起するに当たり、原告代理人らに訴訟遂行を委任しているところ、被告らの不法行為と相当因果関係を有する損害として、原告の弁護士費用のうち三万円を被告らに負担させるのが相当である。

五  以上によれば、原告の請求は被告らに対し連帯して三三万円の支払を求める限度で理由があるので、右の限度で原告の請求を認容し、その余の請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山川悦男 裁判官新堀亮一 裁判官渡邉千恵子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例